【雑記】テラバトルのシナリオを担当しましたの回

 先日リリースされたテラバトル(iOS/android)にて、シナリオを担当させていただきました。会社を設立してから、半年以上が過ぎ、特に発表することも無いまま日々が過ぎておりましたが、ようやくここに来て報告できることができた。良かった。

まだ、未プレイの方がもしこの記事を見られましたら、ぜひ遊んでみてください。

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 余談ですが、11月6日売のファミ通さんで15ページも特集されていて、坂口さん始めミストウォーカーの方々の座談会も掲載されています。そしてなんと僕も参加。奇しくも11月6日は、僕の30歳の誕生日。記念すべき日になりました。ありがとうございました。

――こんな事を考えていた、という記録

座談会ではうまく話せなかった(無念)けれど、テラバトルのシナリオやすべてのキャラクターのプロフィールを考える上で、心のなかには様々な葛藤がありました。

 スマートフォンで遊ぶゲームにシナリオはどこまで必要なのか? シナリオが入ることを誰か喜んでくれるのか? 仮に良い物が出来たとして、読むか? といったところでしょうか。
 スマートフォンで遊ぶネットワークを介したビジネスモデルのゲームアプリケーションを、乱暴ながらソシャゲという言葉でまとめてしまうとして、すべては僕自身がソシャゲに対して抱き続けてきた疑問が原因です。

 そのゲームを遊んだ人が、10年後、自分に会いに来てくれるか?

 これです。

 自分のことしか尺度にはできないのでそうしますが、僕は小中学生の頃にゲームに触れ、ファミ通を毎号楽しみに待ち、貪り読んでは開発者の名前や開発会社を覚え、この人たちはなんて楽しそうなことをして持て囃されているんだろうと、憧れていました。たぶん、どんなジャンルでも、下が育つってそういうことでしょう?

 僕は、ずっと、RPGが好きで、坂口さんに逢えて、本当に嬉しかった。僕が10やそこらの年頃で遊ばせてもらった、坂口さんたちのゲームがあったからゲーム業界に入りたいと思うことが出来て、それが実現して、本当に憧れの方に逢えて、テラバトルという仕事に結びついた。

 そういった幸せなループの予感をソシャゲから受けることは、申し訳ありません、一度足りともなかったんです。当然、僕はもう、「しょうらいのゆめ」を見ている場合ではないので、そういう初期衝動のようなものが湧き上がりにくい精神になっているのだとも理解してはいるのですが。しかし、そんな後ろ向きな考えを見事にひっくり返してくれたのは、他でも無い坂口さんのひと言でした。

「俺達の時代は、テレビに映すしかなかったからそうした。今がスマホなら、それでいいんだよ、面白そうじゃん」

 僕は、コンシューマゲーム至上主義で、たぶん今でもそれは拭えていないし、これからも捨てられません。が、僕がゲーム大好きな人間になるキッカケとなったゲームを作った張本人たちは、そんなことの為にゲームを作っていたわけではなかった。少なくとも表現したいこと、面白そうなこと、なんでもいいですが、なんかやりたいことがあったときに、出力する場所が限られていただけに過ぎなかったんだ。と、思えた時、初めてスマートフォンという舞台に興味が湧いたのは事実です。そしてスマホで出す以上は、その様式に則ったやりかたを踏んで、その中で違いを生み出すことを目指すようになりました。

 前置きが長くなりましたが、こうしたパラダイムシフトもあって、せっかく自分でやるからには「10年後にテラバトルプレイヤーが自分に逢いに来る」といった想い(願い?)を込めようと誓い、まずは自分が好きだったゲームの分析を始めたのでした。

――一緒に過ごす時間が楽しかった

 僕がRPGを好きな理由。そのひとつは、キャラクターたちが過ごしている時間の中に、自分もいる錯覚。共存意識でした。スターオーシャンシリーズのプライベートアクションを思い浮かべてもらえると良いかもしれません。キャラクターも人なんだから、そりゃあ街に来たら思い思いに過ごすよなあ。と当時わくわくしながら街に散らばった仲間を見つけに行ったものです。そしてその先、知るよしもなかったキャラクターの別の表情を知ったものでした。

 そうした、真面目な物語や熾烈な戦闘だけでは伺いきれないキャラクターの魅力。ギャップとも言えるでしょうか。そういうものを楽しんでいました。ゲーム世界の中でそういった時間を費やせば費やすほど、キャラクターへの愛情が膨れ上がり、「彼らの行く末を共に見届けたい」という気持ちを育んでいくはず。

 当然、本線であるメインシナリオがしっかりとしているからこそ、成り立つ方法論なのかもしれませんが、これは僕にとって「入れなくてはならない要素」になりました。では、メインサイクルとはなんなんでしょう?

――ゲームの流れをコントロールする

 こと、優れた脚本、シナリオというものは世にたくさんあると思いますが、では優れたゲームシナリオとはどういうものだろうと、何度も考えます。当然、明確な答えはいまだ出てきません。出てきても、たぶんこうして書き残せたりはしない気がします。

 ゲームは基本的に「行動したことに対しプログラムが返答する」という構造になっています。だから、プレイヤーが続きを読みたいとゲームに対して訴えかけないと、シナリオは進みません。

 近いのは本でしょうか。本も、ページをめくらないと続きを読めないという点で、ゲームと似ています。ただたったひとつだけ、ゲームにあって本にない、明確な違いがあります。それは、ゲームには「ページをめくる為に、乗り越えるべき障害がある」ということです。

 ゲームとシナリオの関係は、「シナリオの続きを知るために、乗り越えるべき障害を乗り越えなければならない」というところに落ち着きます。また「乗り越えるべき障害」の処理方法によって、ゲームのジャンルが決まってきますね。

 こう書くと、ゲームがシナリオを読ませるために存在しているみたいで少々誤解を招くかな、とも思うのですが、「シナリオ」を「目的」と言い換えることで、ほとんどのゲームは分解できそうです。

 目的とはステージクリアだったり、レアアイテムのゲットだったり、要素のアンロックだったり、ボスの撃破だったり、色々です。シナリオを読むこと自体が目的のゲームは、選択肢による分岐を「乗り越えるべき障害」としているケースもありますね。

 そこから考えると、みんなが好きだったゲームたちは、そういった目的達成のための流れが優れていたんだろうと思います。当然、その流れをつくる役目の一端をシナリオは担っています。

 一気にまとめてしまうんですが…優れたゲームシナリオとは、単に話が面白いということだけではなく、「乗り越えるべき障害」を乗り越えようと思えるモチベーションへの刺激が優れている、のではないでしょうか。

――ゲームの流れを生み出す車輪の話

 20時間、30時間、ヘタすれば50時間以上何かをし続ける。というのは並大抵のモチベーションではないと思います。ですが、ゲームはそれを実現しています。もちろん、時代の変遷とともに人間の生活サイクルや可処分時間に変化が起き、ゲームに費やす時間も変化してきましたが。

 たぶん、ゲーミフィケーションと呼ばれる領域の話なんですが、「ご褒美」のサイクルが完成されていること。これが、ゲームがながーく遊べる理由のひとつなんでしょう。

 ゲームデザイナーは、コンセプトに則った適切な方法でゲームを進行させ、プレイヤーを楽しませる手立てを考えます。その時、ゲームを進行させる車輪となるのは、レベルデザインとシナリオ。それらに課せられた、プレイヤーに与えるべきものはひとつ、「はやく、次を!!」という気持ちです。

 まずシナリオ側にできることは「ヒキ」を用意することでしょう。ストーリーはエピソードの積み重ねで語られますが、そのエピソードの終わりに、プレイヤーの期待を良い意味で裏切る展開が明らかにされ、「つづく!」となれば「どどどどうなっちゃうの!?」とプレイヤーのモチベーションを刺激します。「つぎのステージのお話を! 早く!」となりそうな気がしませんか?

 余談ですが、ゲームは長くやりすぎると身体に良くはないので、僕がシナリオを考える時はたいてい「そろそろ電源切って休んだほうがいいよポイント」を意図的に用意することがあります。ゲームは好きですが、長くても一日2,3時間遊べば良くない? と思ってしまうからです。いろんなことをやったほうが、絶対人生楽しいので。リフレッシュしてゲームに戻ってきてくれたら、そこで「おさらい」的なシーンを入れて迎え入れられるような想定をしています。

 話を戻して。レベルデザイン。…諸説あると思うんですが、僕の場合は…ステージの設計というのがわかりやすいかな、と思います。マリオで例えると、スタート地点はどこ? ブロックはどこに置くの、何個? ドカンの高さは? 敵の数は、ていうか何が出る? キノコはどこに? といったゲームのパーツを組み合わせて、楽しいステージをつくる仕事、ですかね。なぜこれがゲームを続ける車輪になるのかというと、レベルデザインは前段で書いた「乗り越えるべき障害」そのものを生み出す作業だからです。

 シナリオではへなちょこなはずなのに、ゲーム上ではクッソ固くてめんどくさい。そんなこと、たまーにあると思います。そうなるとなかなかゲームを続けるモチベーションは続きません。こらえて進めることができたとしても、一度そういうことが起きてしまうと「この先も同じ事が起こるのでは?」という疑心暗鬼をゲームに抱いたまま遊ぶことになってしまいます。ホラーゲームのように「不安を楽しむ」ゲームで「ポジティブな不安」を掻き立てることとはわけが違います。ゲームを進める事自体が「つらい」作業になってしまうんです。

 逆に、難攻不落と世界で恐れられるダンジョンが、ゲーム上では一本道で大した敵もいないとしたら…? そんな肩透かしを食らったら…当然モチベーションが下がります。世界で最凶のダンジョンがこんなもの? と、底が見えた気がしてしまうからです。

 すでに察しが付いているかもしれませんが、ゲームの車輪とは、「シナリオから受けるイメージと実際に遊んだ感触の一致」そのものではないでしょうか。

 でもですよ、そうするとやっぱりゲームってシナリオを読ませる為にあるの? ってなりそうです。でも、違います。レベルデザイン上、そろそろ新しい必殺技を導入したいね。となったら、シナリオ側はそのあたりに「技を身につける」エピソードを考える。逆にシナリオ上キャラクターたちが非常に苦労して乗り越える場所なんだ、となればレベルデザイン側は「プレイヤースキルの少し上を想定して」ステージを用意すれば、シナリオと同様に苦労して乗り越えた感触がのこるのではないか? こんな感じで、お互いがお互いを高め合う為に、存在しているんです。こう考えると、あのゲームの名シーンって、実は「こういう理由で作られたのでは?」なんて想像することも可能ですね。

 ちなみに、それらを含めたゲームの設計図とルールを最初に考案し、完成まで取り仕切ってまとめるのが、ゲームデザイナーの仕事かな、と僕は思っています。ステージの中身よりも、どんなステージをどんな順番でプレイヤーが遊んだら、どんな風に楽しんでくれるかな、と考える人、でしょうか。ある種のシナリオライターであると言えるのかもしれません。

 とまあ色々知ったふうに書きましたが、テラバトルのゲームデザイナーである西村さんはこのあたり完璧にコントロールされる方で、僕のシナリオのテンポの悪いところや、意図したバトルの内容にそぐわないところが出てくれば指摘、または綺麗に処理していただき、ダイナミックな波をつくって、ゲームを構成されていました。感服しきりでした。このあたりはちょろっとファミ通さんの座談会でも話した気がします。

――テラバトルでは、どうしたのか?

 そもそも最初はこのことを書こうとしていたはずが、なんだか肥大化していってこんなに長くなってしまいました。もうちょいです。

 はじめに書いた、スマートフォンで遊ぶゲームにシナリオはどこまで必要なのか? シナリオが入ることを誰か喜んでくれるのか? 仮に良い物が出来たとして、読むか?
 これらを頭の片隅に置きながら、テラバトルでは、僕の思うスマートフォンという舞台でのゲームとシナリオの関係を次のように表してみようと考えました。

◯シナリオ上でレベルデザインを想定する

◯キャラクターと積み重ねる時間を表現する

 結局、僕が好きだったゲームたちがかつて取り組んできた当然のこと、だったのかもしれません。まさに車輪の再開発。ですが、ゲームという概念の出力方法が多様になった今だからこそ、こうして改めて考える事ができてよかったな、とは思っています。

――シナリオ上でのレベルデザイン

 というと、非常におこがましい感じがしてしまいますが、からくりは複雑ではありません。

 テラバトルは非常にシンプルな操作ながら、奥深い戦闘が楽しめるという非常によく出来ているゲームだと思っています。ですが、F2Pというフォーマット上多重に繰り返される戦闘が存在し、飽きないように戦闘をつくるとなると、操作のシンプルさゆえに様々な戦闘ギミックが頻出することになるだろうなと、ある程度想像していました。で、きっとそれは、たぶん絶対面白くなる。

 だから、ゲームの中盤くらいまではその面白さのみでもゲームは回転し、推し進むはずだと思い、シナリオの起伏を最小限に調節したことを覚えています。ゲームがどんどん面白くなっていく、ということは「やることが増えたり、覚えることが増えていくが、乗り越えている」状態で、プレイヤーの習熟期間とも言えます。この期間の中に、シナリオ的にアレコレ覚えなければならないことを詰め込むのは得策ではないという判断でした。もっというと、きちっとレベルデザインされたステージを遊ぶことに、シナリオ知識はほぼ不要だからです。(シナリオでの会話がヒントになっていることだって有ると思いますが、逆にシナリオを読まないとヒントがわからない設計になってしまうのはゲームとしてはもったいない)

 逆に、その習熟期間に一区切りつくであろう頃に、シナリオ上で大きく動き始めるポイントを設置して総決算の雰囲気を出し、そのあたりからは、かなりシナリオのテンポをあげていきました。話のあらすじを改めて書き起こしてみると、そのポイント以前と以後では巻き起こる事件の数に結構差があるのではないでしょうか? そうした理由は、プレイヤーがゲームに習熟して得たプレイスキルを遺憾なく発揮する場所をたくさん用意するためです。

 それは、育て上げたキャラクター、身につけた操作スキル、手慣れた判断力を試す場とも言えるかもしれません。だから、さまざまなシチュエーションをシナリオ側で用意する必要がありました。その結果シナリオのテンポが上がり、めまぐるしい展開になっていきました。もちろん、全体の波もつけながら、です。

 必然、シナリオも地の文よりもセリフが増えていきました。語りきれていなかった設定部分の補足をする必要もあったのですが、それ以上に、戦闘行動自体に意味をもたせることが増えたからです。「誰かを守りたい」とか「こんなピンチに陥った」とか、シチュエーションを想像する手立てを、より肌に触れる感覚で表現するために、セリフが増えました。

 と、ここまで格好をつけて書いておりますが、さすがは坂口さん。もともとのプロットの段階で、だいたいこういうことが詰め込んでありました。僕がやったのは、構成を詰めたり、伸ばしたり、といった尺の調整がほとんどでした。(このあたりの構成法は、ハリウッド的な三幕構成ベースでした)

 メインシナリオについては、こういった考えのもと、試行錯誤を繰り返したのを覚えています。

――キャラクターとの積み重ね

 難問でした。キャラクターたちとのふれあいは、横道みたいなもので、そちらをメインシナリオ上で膨らませることはできません。なにせ、テラバトルは主人公不在の群像劇で、なおかつ酒場でランダムに冒険者が出逢い、集っていくというゲーム。「Aはいるけど、Bはいない」という状況がプレイヤーの数だけある。こんなにたくさんの個性豊かなキャラクターたちがいるのに、彼らはシナリオ上では混じり合えない! これはひとつの悲劇!

 でも、僕はたったひとつだけそれを可能にする方法を知っていました。プロフィールです。テラバトルではないのですが、僕が携わったとあるゲームで、ゲーム内で使用されるプロフィール文章を担当したことがありました。わりと軟派なゲームだったので、プロフィールもなかなかどうしてネタに走って色々と書いてみたところ、多くのプレイヤーさんに「プロフィールを読んでこいつが好きになった」と言っていただいたことがあったんです。これしかないと、思いました。

 そうした経緯で書き上げたのが、テラバトルのプロフィールでした。元々それぞれ2、3行用意いただいたプロフィールを、10倍以上の長さにしました。ゲームが進行したり、ジョブチェンジする、ということはゲーム内のキャラクターたちもきっと時間が経過しているのだから、何かしら心境等に変化があるはずだと思い、特定の進行に応じて、またはジョブチェンジに応じて、プロフィールが変化するようになっています。

 そうすることで、擬似的にメインシナリオの裏側、横道、そんな雰囲気を味わうことができるかもしれない。プレイヤーとともに、キャラクターたちもまた成長しているのだと、僕が幼いころに遊んだゲームの感覚に近いものを、スマートフォンという舞台で表現できるのではないかと思ったからでした。

 もうひとつ、プロフィール関連で気をつけたこととしては、「かっこつけないこと」でした。キャラクターデザインをされている藤坂さんの描くキャラクターたちは、みな、「これまでの生涯」を思わず想像させてしまう力を持っていると思いませんか? そんなすでにカッコ良いひとたちが、プロフィールでさらにかっこつけたことを言っていたら、なんだか途端につくりもののニオイがしてしまいそうで。そんなうまくいく人生あるかよ、って思われてしまったらいけない。藤坂さんの描く、瑞瑞しくも力強いキャラクターをさらに際立たせるには「むしろカッコ悪いところ」が必要なんだと気をつけていました(思えば、ラストストーリーの時もそうだったのかもしれません)。

 ギャップ。と言ってしまえばひと言で終わりなのですが、キャラクターはずーーーっと格好良く、成功し続けてきたわけではなく、今までもこれからも、愚かな失敗と輝かしい成功を繰り返しながら生き、死んでいく。そんな風に感じられれば、キャラクターたちは愛してもらえるのではないかと、思っていました。

――果たして、それで良かったのか?

 10年後になってみないと、正直わかりません。

 いまだスマートフォンという舞台におけるシナリオは、存在が半端なものであると感じています。どんどんどんどん、「本」に近づいている気がしてなりません。それならば本を読んだ方がいい。そうなると、ゲームシナリオはその出発点である「ドンキーコング」に立ち返って行くのかもしれません。

 ゲームという仕組みについても同様で、文化としてどう身を捌いていくかの岐路に立っている気がしてなりません。レベルデザインとシナリオという車輪を回転させるからこそ得られる「たのしさ」は再考され続けています。

 ただ、テラバトルというゲームは、僕に夢を見せてくれました。

 「楽しいから習熟して、シナリオが進んでいくと盛り上がって、カッコイイ必殺技を覚えて、さらに習熟して…」

 そんなゲームが好きだった自分にとって、夢のようでした。もうこんな機会はこないかもしれない。だからこのゲームを多くの人が遊んでくれて、楽しんでくれることを願ってやみません。それは、多くの夢見る若者と、現在戦い続けている開発者にとっての、福音となる可能性があるからです。

 10年後、自分がまだゲーム業界で生き残っていて、そんなときにテラバトルで「ゲームに可能性を感じた!」…とまでは言いませんが、「あれが好きだった」くらいには言ってくれる後進が居てくれたら、またひとつ幸せになれそうな気がします。